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住吉区(すみよしく)は、大阪市を構成する24区のうちのひとつ。
上町台地の南部、大阪市の最南部に位置し、大和川をへだてて堺市の堺区・北区と隣接している。6本の鉄道、あびこ筋とあべの筋の2本の主要道路が、いずれも都心部と南北に結ばれている。区の北部は、阿倍野区南部から続く住宅街で、阿倍野区の帝塚山一丁目から住吉区の帝塚山中、帝塚山西とお屋敷町となる。その南に位置する住吉大社を中心にした住吉、上住吉は、旧家の多い昔からの静かな住宅地域であり、その周囲に清水丘、墨江、遠里小野、南住吉、山之内などの勤め人階層の多い住宅地が続いている。
地域の歴史
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住吉は古代では「すみのえ」と訓み、万葉集にも登場し、歴史は古い。現在、住吉、住之江、墨江は、別な地域名となっているが、元は住吉の読みの「すみのえ」の異表記だった。
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古代の住吉大社の南に置かれた住吉津(すみのえのつ)は、日本最初の国際港であり、難波津(なにわのつ)が作られるまでは日本の国際的窓口であり、遣隋使や遣唐使はここから出発し、またシルクロードの玄関でもあり、仏教もここから日本に入った。
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中世は、住吉大社宮司の津守氏の館の住之江殿(正印殿)に、南朝の後村上天皇の御座所(皇宮)が約10年間置かれ(住吉行宮)、南朝の拠点となる。
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住吉大社の門前町の地域でもあり、明治時代まで海は住吉大社の近くまで迫り、日本の風光明媚な風景の代表絵図である「住吉模様」は、住吉大社の社前の風景のこと。
帝塚山地域は古代から豪族の邸宅が並び、中でも継体天皇を擁立した大伴金村の住吉の館は有名。帝塚山古墳は、古代の豪族の大伴氏の大伴金村あるいはその子の墓とされる。
区の歴史
もとは摂津国住吉郡といい、古代には住吉津とそれを護る住吉大社が栄えたことで難波津など大阪中心部とは独自の発展をした。
1878年(明治11年)に「郡区町村編制法」が施行され、おおよそ現在の平野区・東住吉区・住吉区・住之江区を範囲とする(ただし、現在の行政区の区域とは完全に一致しない)大阪府住吉郡が誕生し、村ではなく郡内では唯一の町だった安立町に郡役場が置かれた。1896年(明治29年)4月に新しい郡制が施行され、住吉郡は東成郡に併合され消滅した。
住吉区は、1925年に大阪市の第二次市域拡張に伴って東成郡全域が大阪市に編入された際、旧住吉郡の部分を中心にして誕生した。その後、1943年の分増区により、当時の阿倍野区・東住吉区にあたる区域を分離した。また1943年の分増区の際、隣接する西成区との間で区の境界の見直しがおこなわれ、一部区域が西成区に分離編入されると同時に、当時西成区に属していた粉浜地区が住吉区に編入された。1974年には住吉区と住之江区に分区された。住之江区の分区により、住吉公園や安立、浜口などは住之江区に属することとなった。
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