沿革
- 1967年2月1日
布施市、河内市、枚岡市が合併して現在の東大阪市となった。(市役所は旧河内市役所を引き続き使用)
- 1998年4月23日
知人の女性の健康保険証を虚偽の住民登録で取得させたとして、当時の市長、清水行雄が逮捕される。
- 2003年5月6日 市役所が現在地に移転。
- 2005年4月1日
堺市、高槻市に次いで中核市に移行。大阪府下では3番目。
市政の変遷
三市合併による市の誕生
歴代市長の一覧を見ても明らかなように、東大阪市では保革対立は顕著で、元大阪府議会議長だった保守系の辰巳佐太郎が三市合併後の最初の市長となるが、革新系の伏見格之助がそれに替わった。
革新市政の登場
この時期、東大阪市に革新市政が誕生したのは、東京都において日本共産党・日本社会党の支持を受けた美濃部亮吉の東京都知事当選後におきた、全国的な革新高揚の流れを受けてであった。そして翌年、大阪府でも日本共産党推薦・革新系の憲法学者黒田了一が大阪府知事に当選した。東大阪市には革新の風が大阪府よりも1年早く吹いたといえる。
しかし、伏見格之助市長は部落解放同盟等の後援団体からの推薦による市職員採用を行い、市民からの不評を買った。また、支持層である不安定就労者、障害者、高齢者に対する重福祉政策を実施した。 |
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この結果、財政支出は増大し、折からの円高不況、オイルショックによる市税収入落ち込みにより、財政再建団体目前まで追い込まれた。伏見市長は、投資予算の抑制、正規職員採用の削減、給与水準の削減、市税増収策を取り財政は危機的状況を回避することができた。
しかし、市民の間には税負担がなく給付のみを受ける「ただ乗り」市民への重福祉政策に反感が広がった。特に、市内に古くから住む農業や不動産賃貸業などを営む土地所有者や企業経営者(特に中堅企業経営者)、サラリーマン層などの中堅所得層は、伏見革新市政に対する不満を抱くようになった。
保守市政への転換
1982年の市長選で伏見格之助の与党だった日本共産党と日本社会党が同和問題をめぐって激しく対立。伏見市長が社会党よりのスタンスを取ったため、共産党は市政与党から離脱した。そして伏見市政の乱脈な行政運営を徹底批判した上で、伏見格之助とは別の候補を擁立した(伏見市政との絶縁宣言)。職員労働組合も、東大阪市職労から社会党系の自治労東大阪が分離独立した。
その革新分裂の間隙を縫うように自由民主党大阪府議会議員であった北川謙次が保守系および反伏見の中堅所得者層の支持を得て立候補。革新系両候補とも北川謙次の前に敗退して、東大阪市の革新市政は終止符が打たれた。その後、北川謙次、清水行雄という約16年の保守市政が続いた。
市政運営としては保守系与党に支えられて比較的安定が続いた。清水市長は、自治労東大阪労組<東大阪市職労から分裂、社会党系>幹部を重用して、東大阪市職員労組の力を削いだ。北川市長が目指したトップ・ダウン型の市政運営に成功したのである。次に清水市長は、職員定員の800人削減を提唱して、前倒しで達成した。又、一般会計から多額の持ち出しをしていた、国民健康保険特別会計を建て直した。更に、21世紀を目指した市政8大プロジェクトを発表した。その内の一つ、下水道整備事業によって、数百年間河内地域住民を苦しめていた水との戦いに勝利した。これら、一連の施策は一定の成功を収めたと言えよう。 |